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第007回 戦前期日本の映画館写真(5)―大阪 道頓堀・千日前篇 – NFAJテストサイト

NFAJ Digital Gallery – No.7

公開日:2014年8月27日

第7回
戦前期日本の映画館写真(5)―大阪 道頓堀・千日前篇

20世紀最大の娯楽産業として君臨してきた映画―それを担ったのは、昭和初期までに各地に建設された豪奢な映画館の数々でした。大衆を惹きつけるその堂々たる建築、そして華やかな宣伝装飾は、娯楽の王者としての映画の圧倒的なパワーを象徴しています。「戦前期日本の映画館写真」第5回は、大都市大阪のなかでも道頓堀と千日前という二つの大興行街を取り上げ、松竹座・東洋劇場をはじめとする堂々たる劇場建築を紹介いたします。なお、このシリーズの写真はすべて国立国会図書館からの寄贈によるものです(社団法人日本映画連合会旧蔵映画公社資料)。

道頓堀 松竹座(1923年)
Shochikuza Theater, Dotonbori (1923)

道頓堀 松竹座(1923年)
Shochikuza Theater, Dotonbori (1923)

1923年5月17日に開場した松竹座は、鉄骨鉄筋コンクリート建て、ネオ・ルネッサンス様式の近代的な大劇場として定員1141名の威容を誇った。開館時の番組は、ドイツ映画『ファラオの恋』(エルンスト・ルビッチ監督、1922年)、松竹映画『母』(野村芳亭監督、1923年)と松竹楽劇部のレビュー『アルルの女』であった。特に『母』は大阪松竹座の開場式に華を添える目的で作られた大作で、監督を始め、川田芳子、栗島すみ子、五月信子、諸口十九、岩田祐吉といった松竹蒲田のトップ・スターが劇場に駆け付けた。洋画の封切館としては1994年に閉館し、1997年に外観を残して新築され、歌舞伎・演劇の劇場として開場した。

 Osaka’s representative modernism architecture of this period opened in 1923. The theater had 1141 seats. Closed in 1994 as a movie theater, but reopened in 1997 as Kabuki and living theater.


道頓堀 松竹座(1932年)
Shochikuza Theater, Dotonbori (1932)

道頓堀 松竹座(1932年)
Shochikuza Theater, Dotonbori (1932)

1932年8月26日に開催された「愛国の夕」に詰めかけた人々。この催しはアメリカ海軍飛行隊の威力を見せるアメリカ映画『太平洋爆撃隊』(ジョージ・ヒル監督、1931年)の試写と、それに対して日本の防空思想を説いた軍事評論家池崎忠孝の講演とからなっていた。この時期は、写真からも分かる通り、フランス映画『プレジャンの船唄』 (カルミネ・ガッローネ監督、1931年)とアメリカ映画『その夜』 (フランク・タトル監督、1932年)といった外国映画の封切館だったが、「愛国の夕」の盛況から、満州事変以後、大衆の時局に対する関心の高さが伺える。9月1日に封切られた『太平洋爆撃隊』も興行的に高い成績を収めた。

”Patriots’ Evening” show in August 1932.


道頓堀 朝日座(1930年)
Asahiza Theater, Dotonbori (1930)

道頓堀 朝日座(1930年)
Asahiza Theater, Dotonbori (1930)

朝日座は江戸時代から続いた道頓堀の芝居小屋・五座のひとつ。1911年に福宝堂の上映館となり、1913年からは日活の封切館として引き継がれた。1921年、日活との契約期間が切れて松竹キネマの映画館となった。掲載写真は1930年9月15日の改築開場時のもの。その後新興キネマの封切館となったが、1945年に空襲で焼失。1955年、跡地に「大阪東映劇場」が新築開館、のちに「道頓堀東映」と改称したが2007年に閉館した。


道頓堀 弁天座(1931年)
Bentenza Theater, Dotonbori (1931)

道頓堀 弁天座(1931年)
Bentenza Theater, Dotonbori (1931)

弁天座も由緒ある道頓堀五座のひとつ。1920年に松竹キネマの上映館となり、1930年から帝キネの封切館となった。上映作品は『水の大都』(川浪良太監督、1931年)と『お岩長屋』(並木鏡太郎監督、1931年)。1945年、空襲で焼失。1956年、人形浄瑠璃の劇場「道頓堀文楽座」として新築開場した。


道頓堀 弁天座(1936年)
Bentenza Theater, Dotonbori (1936)

道頓堀 弁天座(1936年)
Bentenza Theater, Dotonbori (1936)

1936年6月1日、夜9時から「ミッドナイト・ショウ」と題して行われたアメリカ映画『真珠の首飾』 (フランク・ボゼーギ監督、1936年、マレーネ・ディートリッヒ、ゲーリー・クーパー出演)の有料試写会の様子。定員949名に対し1500人近い入場者があった。この時期、弁天座は洋画の封切館で、試写会では映画評論家飯島正の講演も行われた。

“Midnight Show” with an American film “Desire” starring Marlene Dietrich and Gary Cooper.


心斎橋松竹(1939年)
Shinsaibashi Shochiku Theater (1939)

心斎橋松竹(1939年)
Shinsaibashi Shochiku Theater (1939)

心斎橋松竹は、大阪有数の繁華街・心斎橋筋の「十合百貨店」(現大丸心斎橋店)の北隣に1939年2月に開館した松竹系の映画館。定員230余名の小劇場で、上映作品は松竹映画『家族会議』(島津保次郎監督、1936年)の再映。


道頓堀名画劇場(1942年)
Dotonbori Meiga Theater (1942)

道頓堀名画劇場(1942年)
Dotonbori Meiga Theater (1942)

1941年、道頓堀川に掛かる太左衛門橋の南西詰にあったカフェー「赤玉」が映画館に転向して松竹直営の「道頓堀映画劇場」となり、その後「道頓堀名画劇場」と改称した。上映作品は松竹映画『日本の母』(原研吉監督、1942年)。


千日前 東洋劇場(1933年)
Toyo Theater, Sennichimae (1933)

千日前 東洋劇場(1933年)
Toyo Theater, Sennichimae (1933)

東洋劇場は1933年9月1日に千日土地建物の経営で主に外国映画上映館として開館。鉄骨鉄筋コンクリートの純西洋建築で定員2780名を誇り、東洋一の映画殿堂と謳われた。開館披露作品はともにユニヴァーサル映画で封切の『ビッグ・ケージ』 (カート・ニューマン監督、1933年)と新版再映の『ジャズ・キング』 (ジョン・マレー・アンダーソン監督、1930年)。もともとこの場所は、1912年開館の「第六愛進館」以来の映画館で、その後「天活倶楽部」「映画倶楽部」等と改称し千日前の映画館として親しまれていた。

The theater had 2780 seats.


千日前 大阪劇場(1942年)
Osaka Theater, Sennichimae (1942)

千日前 大阪劇場(1942年)
Osaka Theater, Sennichimae (1942)

東洋劇場は外国映画の封切館としては興行成績が思うように得られず、開館翌年の1934年8月1日より「大阪劇場」と改称、経営も松竹の手に移り大阪松竹少女歌劇団(OSSK)のレビューを中心に松竹映画の封切という番組編成になった。上映作品は『兄妹会議』(清水宏監督、1942年)。戦後は4階に「大劇シネマ」、5階に「大劇名画座」などが作られるが、1967年閉館した。


千日前 敷島倶楽部(1935年)
Shikishima Club Theater, Sennichimae (1935)

千日前 敷島倶楽部(1935年)
Shikishima Club Theater, Sennichimae (1935)

1911年に芝居の劇場として開場した「敷島倶楽部」はその後洋画の封切館となった。掲載写真は1935年10月に東宝チェーンに組み込まれた時のもので、『エノケンの近藤勇』(山本嘉次郎監督、1935年)とフランス映画『キートンの爆弾成金』(マックス・ノセック監督、1934年)の看板や館前装飾が見える。この時期の定員は749名。場所は千日通を隔てた大阪劇場と常盤座の向かい側にあった。のちに「東宝敷島劇場」と名を変え、1956年の改築の際に「敷島シネマ」との2館になるが、1999年に閉館。現在は「TOHOシネマズなんば 別館」となっている。


千日前 敷島倶楽部(1936年)
Shikishima Club Theater, Sennichimae (1936)

千日前 敷島倶楽部(1936年)
Shikishima Club Theater, Sennichimae (1936)

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが主演したアメリカのミュージカル映画『艦隊を追って』(マーク・サンドリッチ監督、1936年)の上映時の「サーヴィス・ガール」の扮装。

“Service Girls” of the theater when showing “Follow the Fleet” starring Astaire and Rogers.


千日前 常盤座(1935年)
Tokiwa Theater, Sennichimae (1935)

千日前 常盤座(1935年)
Tokiwa Theater, Sennichimae (1935)

常盤座は1909年に演劇の劇場として開場。その後改築・改装を経て1913年から日活の封切館となり尾上松之助映画の上映館として親しまれた。掲載写真には「日活映画関西封切場」の看板が見え、この時期は1000名を超す収容人員があった。奥に見えるのが大阪劇場。1956年に閉館。


千日前 弥生座(1938年)
Yayoi Theater, Sennichimae (1938)

千日前 弥生座(1938年)
Yayoi Theater, Sennichimae (1938)

弥生座は、森川信らが1934年に旗揚げしたレビュー劇団「ピエル・ボーイズ」の常打ち劇場として名を馳せたが、もとは新派劇を中心としていた。日中戦争が本格化した1937年、ニュース映画専門館に転向。小説家の織田作之助は次のように書いている。「千日前の名物だった弥生座のピエルボイズも戦争がはじまる前に既に解散していて、その後弥生座はセカンド・ランの映画館になったり、ニュース館に変ったり、三流の青年歌舞伎の常打小屋になったりして、千日前の外れにある小屋らしくうらぶれた落ちぶれ方をしてしまった」(『神経』1946年)。この場所では形態を変えながらも2004年の閉館まで、「千日前弥生座」として興行を続けた。


千日前 大阪ニュース館(1938年)
Osaka News Theater, Sennichimae (1938)

千日前 大阪ニュース館(1938年)
Osaka News Theater, Sennichimae (1938)

大阪劇場と常盤座の間に1937年1月開館。吉本興業の経営で「大阪最初のニュース館」と表看板に謳っていた。左手前が常盤座、右奥が大阪劇場。「大阪ニュース館」はその後「千日会館」となり、2013年まで成人映画館「テアトルA&P」として存続していた。


千日前 アシベニュースハウス(1938年)
Ashibe News House, Sennichimae (1938)

千日前 アシベニュースハウス(1938年)
Ashibe News House, Sennichimae (1938)

芦辺劇場の南側に1937年開館した定員200余名のニュース映画専門館。洋食レストラン「アシベ食堂」を改築して映画館としたため馬蹄形の変わった構造になっていた。芦辺劇場は元「芦辺倶楽部」と称した由緒ある劇場で、映画興行も盛んに行い、帝キネの封切館になったこともある。「アシベニュースハウス」は戦後「アシベ小劇場」と改称した。


千日前 歌舞伎座地下劇場(1942年)
Kabukiza Chika Theater, Sennichimae (1942)

千日前 歌舞伎座地下劇場(1942年)
Kabukiza Chika Theater, Sennichimae (1942)

大阪歌舞伎座は、大型娯楽施設「楽天地」の跡地に1932年9月開場、上方歌舞伎の本拠地として地上7階、地下2階の近代建築を誇った。映画館の「歌舞伎座地下劇場」は1938年10月15日に開場(定員258名)、松竹傍系会社の千日土地建物の経営で、当初は洋画の再映一本立てであったが、掲載写真の上映作品は松竹映画『日本の母』(原研吉監督、1942年、田中絹代主演)。大阪歌舞伎座は1958年に閉鎖され、「千日デパート」に改装された。