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第009回 戦前期日本の映画館写真(7)―神戸 名古屋篇 – NFAJテストサイト

NFAJ Digital Gallery – No.9

公開日:2015年2月17日

第9回
戦前期日本の映画館写真(7)―神戸 名古屋篇

20世紀最大の娯楽産業として君臨してきた映画―それを担ったのは、昭和初期までに各地に建設された豪奢な映画館の数々でした。大衆を惹きつけるその堂々たる建築、そして華やかな宣伝装飾は、娯楽の王者としての映画の圧倒的なパワーを象徴しています。「戦前期日本の映画館写真」第7回は、日本屈指の大都市である神戸と名古屋を取り上げ、新開地(神戸)や大須(名古屋)など、映画とともに繁華街が築かれていった様に注目いたします。なお、このシリーズの写真はすべて国立国会図書館からの寄贈によるものです(社団法人日本映画連合会旧蔵映画公社資料)。

神戸 錦座(1931年)
Nishikiza Theater, Kobe (1931)

神戸 錦座(1931年)
Nishikiza Theater, Kobe (1931)

錦座は湊川新開地に1910年開場。その後日活映画の封切館となり、尾上松之助主演映画などの上映で親しまれた。上映作品は日活映画『本塁打』(熊谷久虎監督)と『源太時雨 争闘篇』(清瀬英次郎監督)、次週封切とあるのは『海のない港』前後篇(村田実監督)。1945年3月の神戸大空襲で焼失した。


神戸 聚楽館(しゅうらくかん)(1938年)
Shurakukan Theater, Kobe (1938)

神戸 聚楽館(しゅうらくかん)(1938年)
Shurakukan Theater, Kobe (1938)

聚楽館は湊川新開地に1913年9月に新築開場した。当初は東京の帝国劇場を模した建物から「西の帝劇」とも言われ、歌舞伎や新劇などを上演していたが1927年以降は松竹の封切館となった。1934年、鉄骨鉄筋コンクリート造5階建てに全面改築、定員1690名(1940年当時)となった。写真は1938年9月14日夜7時から行われた『愛染かつら』前後篇大会の「有料大試写会」に詰めかけた人々。神戸大空襲でも焼け残ったが1978年に閉館し取り壊された。


神戸 阪急会館(1942年)
Hankyu Kaikan, Kobe (1942)

神戸 阪急会館(1942年)
Hankyu Kaikan, Kobe (1942)

1936年4月、阪急三宮駅ビル内に東宝直営の封切館として開館。定員は1326名で入場料金は50銭均一。「阪急のターミナル映画館としても、即ち電車終点の映画館としても関西最初の物である。場内の感じも良く、電車の発着のかしましさも馴れればさして気にもならない」(「六大都市新館紹介」『キネマ旬報』1938年4月1日・第641号)。神戸大空襲でも焼け残り戦後も興行を続けたが、1995年の阪神・淡路大震災により閉鎖された。


神戸 三宮映画館(1938年)
Sannomiya Eigakan, Kobe (1938)

神戸 三宮映画館(1938年)
Sannomiya Eigakan, Kobe (1938)

1937年3月、阪急三宮駅西寄りの高架下に東宝系の映画館として開館。定員は315名で、略称は「三映」。「阪急〔阪急会館〕、三劇〔三宮劇場〕と相つらなつてゐる二十銭均一の東宝系、一本立であるがぶらりと一寸のぞくには手頃の物と言へよう。三映の名も神戸人に親しみ出されてからもう大分になつた、常連の観客層などもきまつたらしい」(『キネマ旬報』前掲同号)。


神戸 三宮劇場(1938年)
Sannomiya Theater, Kobe (1938)

神戸 三宮劇場(1938年)
Sannomiya Theater, Kobe (1938)

1938年1月、阪急三宮駅の高架下に三宮映画館と隣接して東宝系の映画館として開館。定員は697名で、略称は「三劇」。「阪急会館と相並んでガード下に位する東宝系、三十銭均一でフューテュア一本立に短篇、ニュースと言ふ編成であるが、中々客の入りは良く、三映と共に三宮娯楽街の中軸を成して居る」(『キネマ旬報』前掲同号)。さらに同年10月には、短篇とニュースの専門館として三宮小劇場が開館した。


神戸 元町学生映画館(1942年)
Motomachi Gakusei Eigakan, Kobe (1942)

神戸 元町学生映画館(1942年)
Motomachi Gakusei Eigakan, Kobe (1942)

1940年9月、国鉄元町駅東側に東宝系の映画館として開館。ニュース映画や短篇映画を中心にした番組作りで、掲載写真の上映作品は『闘争百万年』(木村映画、1942年)、『カナカ族』(国民教育映画協会、1941年)などの短篇記録映画と、漫画映画『マー坊の木下藤吉郎』(佐藤映画製作所、1938年)、戦況ニュース映画など。


名古屋 千歳劇場(1929年)
Chitose Theater, Nagoya (1929)

名古屋 千歳劇場(1929年)
Chitose Theater, Nagoya (1929)

広小路通の西端・南桑名町にあった。前身は、明治時代の芝居小屋「千歳座」で、演劇の合間に映画上映も行っていた。1921年に松竹キネマの直営館となり改称、主に外国映画の封切館として親しまれた。無声時代には芸術的なヨーロッパ映画が次々と上映され、名説明者を配した独特な雰囲気は「千歳情緒」(伊藤紫英)と呼ばれた。定員は655名。写真は1929年にパラマウント社と松竹が提携した時のもので、上映作品は『恋愛行進曲』(ジョン・クロムウェル、A・エドワード・サザーランド監督)。1945年の名古屋大空襲で焼失したが、1947年に大映の封切館として再建。閉館は1970年。


名古屋 八重垣劇場(1930年)
Yaegaki Theater, Nagoya (1930)

名古屋 八重垣劇場(1930年)
Yaegaki Theater, Nagoya (1930)

本町通りに1930年10月15日開館した八重垣劇場は、スパニッシュ様式の鉄筋鉄骨コンクリート造で、良質なウェスタン・エレクトリック社の発声装置を付けたトーキー映写機を備えていた。経営方式も映画経済論の論客であった評論家石巻良夫を常務取締役に迎えた株式組織で、番組編成は芸術的な外国映画を中心に「映画の実験室」を標榜した。定員は492名。戦中の空襲でも焼け残ったが、1962年に閉館した。写真は開館時のポストカード。


名古屋 中京劇場(1941年)
Chukyo Theater, Nagoya (1941)

名古屋 中京劇場(1941年)
Chukyo Theater, Nagoya (1941)

1935年9月に松竹映画封切館として広小路通に開館した中京劇場は、元は明治初期に新守座として開場した芝居小屋で、1934年に名古屋劇場、続いて「大名劇」と改称後、映画館に転向した。略称は「中劇」。定員は748名。写真の上映作品は『父なきあと』(瑞穂春海監督)と『歌女おぼえ書』(清水宏監督)。閉館は1957年。


名古屋 名古屋宝塚劇場(1936年)
Nagoya Takarazuka Theater, Nagoya (1936)

名古屋 名古屋宝塚劇場(1936年)
Nagoya Takarazuka Theater, Nagoya (1936)

1935年11月3日、広小路通に開館した東宝直営劇場で、定員は1994名。開館番組は宝塚少女歌劇で、次週から映画上映も始まった。写真の上映作品は『エノケンの千万長者』(山本嘉次郎監督)。大劇場は1階から3階まであり、2階にはレストラン「名宝グリル」、5階には「名宝アイススケート場」、3階にはのちに小劇場「名宝会館」ができた。戦後も東宝系の邦画洋画のロードショー館として、名宝劇場、名宝シネマ、名宝スカラ座の三館体制で名古屋興行界の中心的存在であったが2002年12月に閉館した。


名古屋 大須映画劇場(1938年)
Osu Eiga Theater, Nagoya (1938)

名古名古屋 大須映画劇場(1938年)
Osu Eiga Theater, Nagoya (1938)

1937年12月末にSY(松竹洋画)チェーンの封切館として門前町に開館、定員は1115名。開館記念の上映作品はアメリカ映画『軍使』 (ジョン・フォード監督、シャーリー・テンプル主演)と『宝の山』(1937年、ジェームズ・W・ホーン監督、ローレル&ハーディ主演)。1940年に東宝系となり大須宝塚劇場と改称した。戦後は「OS劇場」などと名を変えたが1969年に閉館。


名古屋 帝国劇場(1938年)
Imperial Theater, Nagoya (1938)

名古屋 帝国劇場(1938年)
Imperial Theater, Nagoya (1938)

1937年12月末に新興キネマの封切館として大須に開館。定員は679名。帝国劇場はもともと1912年に門前町に開場した芝居小屋「帝国座」で、1919年に大須・万松寺境内に移転。1937年に改称し新築開館した。名古屋大空襲で焼失。


名古屋 弁天映画劇場(1938年)
Benten Eiga Theater, Nagoya (1938)

名古屋 弁天映画劇場(1938年)
Benten Eiga Theater, Nagoya (1938)

1938年10月9日、西区浄心大通りに古川商店映画部の経営で新築開場。定員は375名。第1回上映作品は松竹の『愛より愛へ』(島津保次郎監督)と『千両の腕』(笠井輝二監督)、新興キネマの『柳生旅日記』(堀田正彦監督)の3本立て、封切館ではなく二番館であった。古川為三郎の興した古川商店は当時、貴金属商を辞め映画館経営に乗り出しており、戦後は「日本ヘラルド映画」となって名古屋興行界の指導的役割を担い、後に日本の外国映画配給の一大勢力となった。資料では「弁天映画劇場」だが写真上の館名は「弁天座」。